2016年8月18日木曜日

シリア内戦で餓死者が続出した町マダヤからの手紙を訳してみた。

先日、ワシントンポストで「2015年以降の欧米以外の国のテロ犠牲者数が欧米で起きたテロの50倍」という記事が出ていた。英語がスラスラと読めたりはしないが、図解があって世界のイビツな現状が視覚的にわかる。文字通り、ひと目で伝わってくる。こういうわかりやすさは非常にありがたいのだが、日本でこの類の情報を平明に伝えてくれる大手メディアをあまり知らない。

ということをfacebookに書いていたら、友だちがアルジャジーラが今年1月31日に掲載した記事のことを教えてくれた。シリアの町マダヤの苛酷な状況を訴える住民の手紙を紹介しているのだが、日本では自分も含めて「マダヤ」って町の存在すら知らない人が大半ではないだろうか。

マダヤは内戦の煽り受けてアサド政権によって包囲されて餓死者が続出したそうで、「マダヤ」で検索すると1月11日に三か月ぶりに国連の支援物資が届いたというニュースがわらわら出てくる。しかしだからといって状況が解決したわけではなく、この住民の手紙はその後に書かれたものだ。

マダヤの最新情報については今ババッと検索したくらいではよくわからないのだけれど、この記事自体は日本のひとにも伝わるべきではないのか。誰か日本語訳してくれないかなと言っていたら、今度はザザッと訳して送ってくれた友だちがいたのでシェアしてみます。

※ちょいと意訳的に手を入れてあります。おかしなところがありましたら村山の責任です

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マダヤからの手紙「なぜ誰も気にかけようとしないのか?」
《シリアの街マダヤの住人が飢餓と背中合わせの生活を綴る》

シリアの町マダヤに住む元法学部生のアマルが本紙のアミヤ・クッラブにその生活を伝えている。

僕はマダヤで生まれました。僕が住んでいた地域は素朴で美しく隣人同士が愛し合って暮らしていました。マダヤの中心部に行く人々が最初に見かける界隈です。

包囲を受けていた時、僕らもマダヤの他の家族も同じような経験をしました。私たちはただただ生き残ることに必死です。住民の大半は2、3日まったく食べ物がないような状態でした。僕はもはや子供ではありませんが、体重は50キロを切りました。これが現実だとは信じられない時もあります。

飢えて死にそうな子供たちを見、自分の無力を痛感しました。自分を取り巻く世界が崩れ去るのをただ見ているしかないのです。マダヤの住人にはミルクもパンもお金もありません。そして寒さは厳しくなるばかりです。

数日前に国連が到着する前は、1キロの砂糖が300ドルもしました。国連の支援物資も20日も持たないのではないかと危惧しています。そうなれば何が起こるのか考えたくもありません。

ですが、シリア革命が起こった2011年のことから話をさせてください。当時の僕はダマスカス大学の法学部生でした。いつか仕事で成功し、家族に誇らしく思ってもらいたいと大きな夢を抱いていました。

当初、革命は一連の抗議運動として始まりました。人々は自由を要求していました。同じく学生だった親しい友人の幾人かも参加していました。彼らは真摯に人々のために自分を犠牲にしていました。ですが政権は革命軍に牙をむき、無防備な市民に銃口を向け無実の人々を殺害し、平和的な抗議運動を武装抗争に変えてしまったのです。

マダヤの住民には自衛のために武装せざるを得ないと感じる人も出てきました。彼らは自らの名誉を守ろうとしたのです。ですが2014年11月頃に政権は戦略を変えました。町を完全に包囲して僕たちを兵糧攻めにし、殺傷能力の高い樽爆弾を空から落としました。空爆でひとつの家族全員が犠牲になる様もこの目で見ました。

この頃になると食料価格が急騰し始めました。ここはレバノン国境に近い場所なので、ヒズボラも政権に協力して僕らの町を包囲し、市内に侵攻する計画だったのです。2015年7月の初めには、マダヤにほど近いザバダニで戦闘が始まりました。

ザバダニの住民は、砲撃や戦闘を避けてマダヤに逃れはじめました。マダヤは既に食糧難で苦しんでいたのですが、ザバダニからの避難者の流入におって人口は激増しました。一方、食糧の供給はどんどん先細りしていきました。

数ヶ月後、ザバダニの自由シリア軍は政権とヒズボラと停戦に合意しました。非戦闘員の市民たちは町から出るのに高いお金を払うことになりました。

僕の近所に住んでいたおじいさんは、安全に町を出るために約3,000ドルを支払いました。ですが僕たちのほとんどはそんな大金は持っていません。それから数ヶ月間、政権はさらに包囲網を強化しました。毎週、毎週、僕らは食料が尽きていくのをただ眺めていました。

マダヤの住民たちの本当の苦難が始まったのはこの頃からです。日々食べ物を求め、寒さが厳しくなる中で暖を求めるために必死でした。政権は町の周囲に地雷を埋めていて、僕たちは町から出ることができませんでした。食料と薪を求めて町を出ようとした何十人もの人々が犠牲になりました。

住民すべての最大の悩みは、子供たちに与えるわずか数グラムの食料をどうやって見つけるかになりました。

僕は自分の家族──母、父、姉妹、いとこ、おじやおば──が飢えていくのを黙って見ているほかに何もできませんでした。僕より勇敢な人たちが町を出ようとしては捕らえ、地雷で命を落とし、手足を失ったりしたのを知っています。スナイパーに撃たれて命を落とした人も大勢います。

食料の価格は3倍以上になりました。2.5ドルだったものが今では10ドルします。包囲網が強まり、脱出を試みた知人が死んだり手足を失ったりしていく一方で、価格は上昇する一方でした。

僕たちは空腹の苦しみを癒やそうと雑草を集めて調理しました。近所にあった美しい並木は葉を刈っていくうちに丸裸になってしまいました。あっという間に雑草もなくなりました。冬の到来とともにこの地域は吹雪に見舞われました。状況は酷くなるばかりです。

ペットを食べることにした人たちもいます。猫、犬、ほかの動物もお構いなしです。

雪のせいで雑草はもう育ちません。冬に入って最初の月に人が死にはじめました。最初の月には3、4人亡くなったと思います。

町中に出ると、意識のない男性や女性の死体が視界に飛び込んできます。僕にはどうすることもできません。ある男がゴミ箱を引っかき回して食べ物を漁っているのを見かけました。よく見ると近所の薬剤師のトゥフィクでした。危うく彼だとわからないところでした。人々はますます必死になり、食べ物のくずを奪い合い、人々が飢え死にしそうになっているのに食料をため込んでいると他人を非難するようになりました。

母親の母乳は出なくなり、何人もの乳児が死んでいきました。

僕の気持ちは筆舌に尽くせません。どんなに書き連ねても、僕たちが経験したことを言葉で表すことはできないでしょう。

包囲の初期の段階から人々は家庭用品や家具を売り始めていました。洗濯機、テレビ、冷蔵庫。すべて食料を買うために売ったのです。しかし仮にすべてが売れたとしても100~150グラム程度の食料にしかならないでしょう。5キロの食料を買うために家を売った人もいます。そんなバカなと思うかもしれませんがこれが現実なのです。

どうしてこんな風になっしまったのか? どうして誰も気にかけてくれないのか? いつも自分に問いかけています。もう僕たちは未来を思い描くことができません。どんな未来を考えればいいのでしょうか? あの若く大学生だった僕自身は、もはやどこにもいないのです。

もう疲れました。僕たちは死と隣り合わせで生きています。でも僕らを気にかけてくれる人は誰もいないように感じています。

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